児玉源太郎顕彰会

Q&A

Q1 顕彰会がなぜ、いま設立されるのですか。
A1 児玉源太郎が1906年(明治39)55歳で逝去して2016年(平成28)で110年。2015年(平成27)9月、岐山通三丁目の生家跡が「児玉源太郎生誕の地公園」として整備されたこともあり、機運が盛り上がってきました。この顕彰会設立については長年の懸案でもありました。
Q2 顕彰会の設立にどのような人が関わってきたのですか。
A2 「児玉源太郎生誕の地公園」は2014年(平成26)、生家跡を所有者の徳機株式会社(岡田幹矢会長)が周南市に寄贈されたことを受けて市が整備、2015年9月17日に開園しました。これを機に、地元の有志から児玉源太郎顕彰会をとの声が上がり、周南文化協会がお世話する形で準備委員会を起ち上げ、いろんな人の意見を聞きながら顕彰会の組織のありかたや活動方針、将来への展望などを話し合いました。
準備委員は、小川 亮(元徳山市長・児玉文庫利用者)、小野英輔(徳山商工会議所会頭)、掛川 潔(周南文化協会事務局長)、黒神公直(児玉神社元宮司・遠石八幡宮名誉宮司)、西﨑博史(周南文化協会会長)、原田康宏(周南観光コンベンション協会会長)、久行保徳(周南文学連盟会長)、森重祐次(徳山地方郷土史研究会前会長)、山下武右(周南文化協会参与・山下医院院長)の9人(五十音順)。
Q3 顕彰会の目的は何ですか。
A3 幕末から明治への激動の時代を生きた児玉源太郎の人物と足跡を理解し、その業績を明らかにして後世に伝えるとともにこれからの人づくり、郷土づくりに生かすために設立しました。
Q4 顕彰会の組織や活動はどのようなものですか。
A4 準備委員会の意見を踏まえて発起人会を開催、組織や活動内容などを盛り込んだ会則や役員の案を練り上げてきました。会長、副会長、理事、事業や会計を監査する監事、組織や事業の世話をする幹事、そして事務局長で組織しています。活動は、機関誌の発行や講演会の開催などで業績を伝えるとともに、史料収集や調査研究を行い、業績を明らかにしていきます。必要に応じて事業を行い、関係史料や書籍などを紹介、出版して情報提供にも努めます。
発起人は、小川 亮(元徳山市長)、赤尾嘉文(山口放送代表取締役会長)、黒神公直(児玉神社元宮司・遠石八幡宮名誉宮司)、山下武右(周南文化協会参与・山下医院院長)、西﨑博史(周南文化協会会長)の5人。この5人が設立総会の呼びかけもしました。
Q5 周南文化協会になぜ事務局を置くのですか。
A5 全市的で幅広い、しかも純粋で客観的、長期的な視点をもって取り組まないと継続できません。有志の組織で動かすには限界があります。文化協会が事務局としてお世話する形で、百年先を見据えた組織を軌道に乗せたいと考えています。児玉源太郎が私財をなげうって開設された「児玉文庫」の役割と功績なども文化的な視点から明らかにしていきます。文化協会の文学連盟の中には郷土史研究会もあり、歴史研究の立場からも関わってもらいたいと思います。
Q6 児玉源太郎とは、どんな人物ですか。
A6 児玉源太郎は1852年(嘉永5)徳山本丁に生まれ、明治の陸軍軍人、政治家として活躍しました。戊辰戦争、西南戦争で活躍し、参謀本部、陸軍大学校で兵制の近代改革を推進するなど陸軍の基礎を築く一方、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣を歴任し、政治の世界でも手腕を発揮しています。台湾総督時代は民政長官の後藤新平とともに近代化を進め、日露戦争の名参謀ぶりもよく知られています。日露戦争後は総理大臣候補にも名前が挙がるなど大きな期待が寄せられる中、惜しくも1906年(明治39)55歳で逝去しました。まさに開国後、日本が世界の列強諸国に並ぼうとした時代をリードした人物です。我が身を捨て、国際情勢を見据え、日本をはじめ、東アジアが向かうべき道を示すことができた指導者でした。
 郷土への思いも強く、1903年(明治36)生家跡に私設の図書館「児玉文庫」を設立しました。ふるさとの教育文化の向上に役立てばと人々にも開放、全国でも先駆けた取り組みはイギリスの新聞にも紹介されました。独自色のある運営も画期的で、「児玉文庫」は明治、大正、昭和と多くの人に親しまれ、郷土の教育文化に大きな役割を果たしました。